江戸時代文化年間の始められた隅田川七福神めぐりは200年以上の歴史を持つ都内最古の七福神めぐりの1つ。1/1から1/7までの間、新年の開運を祈る行事として開催されています。
七福神を祀る各寺社をめぐって、色紙に自分でスタンプを押したり、色紙に御朱印をいただいたりすることもできますが、各寺社で各々の神様の御分体をお受けして、御分体を宝舟に乗せて、家庭などでまつるのが江戸時代から伝わる由緒正しい参拝方法らしいです。ということで、小村井香取神社で出初式を観たあと、隅田川七福神めぐりをしてきました。
(堀切駅)
ルートは三囲神社スタートと多聞寺スタートのどちらでも良いらしいので、東武伊勢崎線堀切駅から多聞寺へと向かいました。
堀切駅から多聞寺へは、線路横をほぼ一直線で行けますが、少し距離があります。親切に順路が書かれていました。
茅葺きの山門
すごい参拝行列!と思ったら、ちょうど、はとバスツアーの人たちが来ていたためでした。
多聞寺の本尊の毘沙門天像は、弘法大師作と伝えられる鎌倉時代の特徴を示す高さ50cmの木立像。
狸塚
昔々、多聞寺がある辺りは、大きな池があり樹木や雑草が生い茂り、狸や狐たちの住処で、村人や旅人たちにいたずらし続けていました。鑁海(ばんかい)和尚さんは、お堂を建てて妖怪狸たちを追い払うことにしました。まず大きな松の木を切り倒し、穴をふさぎそれから池を埋めてしまいました。すると大地がとどろき空から土が降ってきたりといたずらは激しくなるばかりです。和尚さんはご本尊の毘沙門天に祈り続けました。
ある夜のこと和尚さんの前に大入道が現れ「ここはわしのものじゃ。さっさと出ていけ!」とおどかすのです。和尚さんは一心にご本尊さまを拝んでいると、毘沙門天に仕える童子が現れて大入道を打ちのめしました。翌朝、2匹も大狸が庭で死んでいました。
和尚さんは哀れに思い、切り倒した松の木の根本に狸を葬り、塚を築いて霊をなぐさめたそうです。これが多聞寺の狸塚の由来です。
坐姿六態地蔵
(隅田川神社)
多聞寺から白鬚神社までは結構離れているのですが、途中の隅田川神社に立ち寄り。
「水神社」と呼ばれかっては樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地。隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。
源頼朝挙兵の折の、治承4年(1180)この地に到り、水神の霊験に感じて社殿を造営したともいいます。
狛犬のかわりに石亀
(東白鬚公園)
東白鬚公園を通って白鬚神社へ。
まだ紅葉が残るところも
このあと雨が降り出してきたので、ランチをとりながらやりすごしました。
今から千年余の前の天暦五年(951年)、近江国志賀郡境打颪に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが、東向島鎮座・白鬚神社の始まり。主祭神・猿田彦大神様は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。人を正しく導くことが叶うとのことから、旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めています。
隅田川七福神で「寿老人」を「寿老神」と記しているのは、隅田川沿岸の七福神を選び出した時に、寿老人を祭ってあるところだけが見つからなかったので、百花園のある寺島の鎮守、白鬚大明神を、その御名前からして白い鬚の老人の神様だろうからと、寿老人にあてたことから来ています。石碑には、「白鬚大神」と刻まれています。
白鬚神社から向島百花園はすぐ。向島百花園は、12/29~1/3は休園日なのですが、1/1〜1/3は、福禄寿尊堂のエリアのみ無料で入ることができます。1/4以降は普段通り一般150円で入園できます。
百花園は文化元年(1804年)に佐原鞠塢が開いたもので、隅田川七福神の発祥の地です。百花園という名は、『梅は百花のさきがけ』という意味で酒井抱一が命名したといわれています。
百花園園主鞠塢は福禄寿の陶像を愛蔵しておりましたが、ある初春の一日、百花園で風流にひたっていた文人たちが誰ともなく、その福禄寿にちなむ正月の楽しみごとはないものかという話に。隅田村多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の長命寺に弁財天がまつられていることがわかると、何とか七福神をそろえたいものと詮索を重ねていくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國の小祠があり、須崎村の弘福寺には黄檗禅に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明。見つからなかった寿老人に関しては先に書いた通り。
園内には春の七草があちこちに
(子育地蔵堂)
百花園から長命寺も少し距離があります。途中には子育地蔵尊なども。
(冬桜)
長命寺の近くには冬桜が咲いていました。
長命寺桜もち
長命寺は元和元年(1615)頃の創建と伝えられ、天台宗延暦寺の末寺でで古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624〜1644)に3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。今も長命水石文や復元された井戸を残しています。十返舎一九の狂歌碑、松尾芭蕉句碑、著名人の墓など多くの石碑が見られます。
七福神のうち、紅一点の弁財天は、水辺に多く祭られている神様で、長命寺の弁財天は、琵琶湖竹生島の弁財天の分身です。水の神様ということから、蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝するという風習が生まれました。
弘福寺は長命寺のすぐの隣にあります。
弘福寺は日本三禅宗の一つ黄檗宗に属する寺院。京都府宇治市にある黄檗山萬福寺の末寺で、黄檗宗第二代住職木庵禅師の弟子鐵牛禅師が、葛飾郡須田村香盛島という僻村にあった香積山弘福寺の堂宇を延宝元年(1673年)に村の有力者たちの計らいで、黄檗宗の寺として葛西一族の城址に寺領を移すと共に、牛頭山弘福寺と改称されました。山号の「牛頭(ごず)」とは、当時隣接していた牛嶋神社の祭神 須佐之男命の別称が牛頭天王で、古くから地主神として祀られていたことによるとされています。
境内に風外和尚禅師 自刻の父母の石像があります。風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀られたものです。
風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めており、「咳の爺婆尊」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしが伝わっています。
弘福寺ではせき止飴(300円)も販売されています。
(浅草雑芸団 はるこま七福神めぐり)
隅田川七福神めぐりの途中で、浅草雑芸団の「はるこま七福神めぐり」に出会いました。向島2丁目周辺町まわりの門付けで向島七福すずめの御宿さんで春駒という祝福芸を披露していました。
大國神 恵比寿神 三囲神社
弘福寺から少し歩くと三囲神社があります。
社伝によれば600年ほど前の文和年間、近江国三井寺の僧源慶が東国を巡礼していた途中、隅田川のほとり、牛島のあたりを通りかかると荒れ果てた小祠が目につき、農夫にその由来を尋ねると弘法大師創建の由緒ある祠であるとのこと。源慶はそのさまを深く悲しみ、自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ白狐に跨った神像が納められた一つの壷が出て来ました。
そのとき、どこからともなく白狐が現われ神像のまわりを三度めぐって、またいづこともなく消え去りました。この故事から「みめぐり」の名が起ったと伝えられています。
大国・恵比寿の二神は、境内にある末社 月読命祠(つくよみのみこと)に祀られており、社殿は安政2年(1855年)改築以前の本殿の木材が使用されています。大国・恵比寿神の像は、越後屋(現在の三越)に祀られていた本像です。
三井家では享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角に位置、いわゆる鬼門だったため。また、三囲神社の“囲”の文字には三井の“井”が入っている。そのため、「三囲はすなわち三井に通じ、三井を守る」と考えられた。三越各店で分霊を祀るなど、三井グループと三囲神社の繋がりは深い。2009年に閉店した三越池袋店のシンボル・ライオン像も境内にあります。
ちょうど正月にドラマ「ミステリと言う勿れ」が再放送されていて、たまたま観た回に三囲神社やこの三角石鳥居,牛嶋神社が出ていました。
三囲神社の近くにはすみだ郷土文化資料館があり、2025/2/16まで「特集展示 隅田川七福神-向島の名所と寺社-」が開催されています。(あとから気づきました)
隅田川七福神は三囲神社までですが、さらに進むと牛嶋神社にたどり着きます。
初詣の人で賑わっていました。1/31まで夜はライトアップされています。
貞観年間(859〜879)頃、慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられ、かつては隅田公園に北側にあったのが公園の工事のため昭和7年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されています。境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名です。
おおよその歩いたルート(歩行ルートがなぜか遠回りになってしまうところがあり、この通りではないですが)
このあと浅草方面に行くこともできましたが、東京スカイツリータウンに寄って帰りました。
浅草には浅草名所七福神がありますよ。
隅田川七福神 宝ぶね
各寺社でいただいた御分体(500円)
御分体は黒い陶器製。
御分体を乗せる宝船は、三囲神社と多聞寺で販売されています。(1,500円)
船の部分は白い陶器製です。帆など宝船は巫女さんが手作りされているそうです。
宝船に乗って、福が訪れますように。
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